INSIGHT & OUTSIGHT

最近、知人に勧められて「暇と退屈の倫理学」(著者:國分功一郎 太田出版)という本を読んだ。名前からして妙に引っかかるタイトルだ。しかも「論理学」ではなくて「倫理学」なのである。「暇と退屈」に倫理なんてあるの?「暇と退屈」の過ごし方の道徳的な規範に関して語っているの?それって面白いの?などと、乏しい想像をしながら、勧めてくれた方のセンスを信じてポチってみた。

本が届いて読み始めて見ると、哲学の話でもあり、人類学の話でもあり、経済学の話でもあり、心理学の話でもある。何とも、深くて、難しくて、興味深い本であった。哲学的な視点を軸にして、暇と退屈の倫理学が展開されていくのだが、私には次のように読み取れた。

人間は労働から解放されたい、暇を作りたい。そして生まれた暇を有意義に使いたいが、退屈に陥る。退屈している自分が許せないのだ。そして退屈を埋めるために、新たに仕事をしたり、趣味に没頭したり、エンタメを楽しんだり、さまざまな工夫がなされる。その工夫のために仕事が生まれ、その仕事を合理化するためにまた暇を生み出す。一方で、人間は工夫の結果生み出されたモノや事にじきに飽きる。そして、モノや事は消費され、次々に新しいものが生み出され、便利になり、また暇が生まれ、退屈を埋めるために生み出されたモノや事が消費される。資本主義において対価として提供される便益の多くは、利便性が追求され、その結果、時間という恩恵がもたらされる。そして、もたらされた時間を有意義に過ごすための方法が提供される。

待てよ、それって、利便性と時間を有意義に過ごす方法を同時提供しているのって、さっき私がポチったプラットフォーマーってやつじゃないの?そのような事は本書には一切書かれていないが、「便利→時間の創出→暇→退屈→消費」のループを生み出している者が資本主義の覇権を握っているのではないか。

資本主義というシステムの限界といった論旨を最近よく目にするが、暇と退屈の観点からも、資本主義の限界が考えられるのではないか!?

自分自身が資本主義の世界で暮らし、資本主義が我々の住む社会の基盤になってるのは間違いないが、我々は暇と退屈の連鎖から新たな価値基準に変化していく事ができるのだろうか?言えることは、これまで我々が目指して来たのは「人類を基準にした利便性の追求による時間の創出」であったとするならば、これからは「地球的な視点での利便性の追求ではなく、永続性の追求」なのではないかと思う。

「暇と退屈」を征する者は資本主義社会の覇権を握る事が出来るが、一極集中は地球という空間に歪みを生むかもしれない。暇の使い方に対する深い考察を暇な時にしてみるべき時期なのではないかと思う。